直江兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、特に豊臣秀吉に仕えることで知られています。彼の生涯は数多くの戦いや政治的な活動を通じて日本の歴史に大きな足跡を残しました。
今回はなおえ兼続さんの生まれについてしらべていきます。
目次
生誕から謙信時代
なおえ兼続さんは以下のように諸説ありますが
これらを立証する信憑性のある史料は確認されていません。
なおえ兼続さんの生まれ
越後上田庄(うえだのしょう)で生まれたました。
なおえ兼続さんの生まれの通説
通説によれば、直江兼続は1560年に樋口兼豊の長男として生まれたとされます。彼の出生地は坂戸城下とされており、現在の新潟県南魚沼市に位置しています。
新潟県南魚沼市は、美しい自然環境と豊かな米作りで有名な地域です。特に、魚沼産のお米は日本全国で高い評価を受けており、美味しいお米の産地として知られています。
この土地は兼続の家族が代々治めていたとされ、彼が生まれたことにより、直江氏としてこの地域に深く関わることとなりました。兼続は幼少期から武術の修行を始め、その後の戦国時代から江戸時代初期の動乱期において、豊臣秀吉に仕えることでその名を広く知られることになります。
新潟魚沼のお米は、地域の豊かな自然と厳しい寒冷な気候が育むお米の品質に影響しています。また、そのおいしさや食感は多くの人々に愛されており、地元の農家の努力によって収穫されるお米は日本全国に供給されています。
直江兼続の生まれた土地がお米で有名な地域であることは、日本の歴史と文化において興味深い一面であり、彼がこの地で育まれた環境が彼の武将としての才能や信念に影響を与えた可能性も考えられます。
父・樋口兼豊さんとは
樋口兼豊さんは木曾義仲の重臣・今井兼平の
兄弟である樋口兼光の子孫と言われています。
あの戦国シミュレーションの「信長の野望」
でもでてきますよ。
父・兼豊さんの身分は?
父・兼豊さんの身分についても見解が分かれて
いるようです。
米沢藩の記録書『古代士籍』『上田士籍』では
長尾政景家老、上田執事との記載があるみたいです。
一方で、『藩翰譜』によれば兼豊は薪炭吏だったと
いわれているものもあるようです。
お母さんは?
お母さんは上杉家重臣・直江景綱の妹とする説と、
信州の豪族・泉重歳の娘とする説と、
またそのどちらでもないとする説があるようです。
ちなみに後になおえ兼続さんの位牌が納められた
東源寺は、尾崎氏(泉氏)が開基した菩提寺です。
その他の生まれの説
その他の説としては現在の南魚沼郡湯沢町に樋口姓が
多いことから湯沢で生まれたとする説があります。
幼少時代
1564年に上田長尾家当主の政景がお亡くなりになると
上杉輝虎の養子となった政景の子・顕景(後の上杉景勝)
に従って春日山城に入り、景勝の小姓・近習として近侍したという説と、
仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)の要望を受け幼い頃から近侍していたという説があります。
まとめ
今回はなおえ兼続さんの生まれについてまとめてみました。
歴史に思いをはせるのはロマンがありますね。